『オレンジの種五つ』-シャーロック・ホームズの冒険を読んでみた。【全体のあらすじと考察】
オレンジの種五つ(The Five Orange Pips)
『橙の種五粒』とも。
単行本『シャーロックホームズの冒険』に収録された短編の一つ。
家族にオレンジの種がある日送られてきた。それ以来奇妙な死が続いて……というストーリー。
まずは全体のあらすじからどうぞ。感想はその下にまとめてあります。
あらすじ
ジョン・オープンショーという男が、ロンドンを襲う酷い嵐の中からわざわざホームズを訪れてきた。
アメリカ帰りの彼の伯父がある日、KKKの文字と5つのオレンジの種が入った手紙を受け取ってからというものの、すっかり怯えた様子になってしまい、それから2ヶ月後に自殺のような状況で亡くなったらしい。
その後に伯父の遺産を継いだ彼の父も、「日時計に書類を置け」という指示とKKKという文字、そして5つのオレンジの種の入った手紙を受け取った。
しかしこれを真面目に取り合わなかった父もその5日後に事故としか思えない状況で亡くなったという。
そしてオープンショーも家族の遺産を継ぎ、やがて父に送られた手紙と全く同じものがきた。それが2日前のことである。
不吉なものを感じたオープンショーは警察に相談したが、真面目にしてもらえなかったので、ホームズの所に相談しに来たのだ。
書類は伯父が焼き払っていたが、一つだけ残っている日記の切れ端があった。
ホームズはオープンショーに出来る限り早く家に帰って日時計にその切れ端と、それ以外に書類は残っていないのだと説明する書き置きも一緒に置いておくように指示する。
しかしそれは間に合わなかった。
オープンショーは駅に向かう途中の桟橋で溺れて亡くなったと翌朝の新聞にあった。
しかし、ホームズの下宿から駅までの道に桟橋など無かったはずなのだ。
調べてみたところ、KKKはアメリカの暴力組織クー・クラックス・クランの略称であり、その組織はオレンジの種などの奇妙な物を制裁前の警告として送る風習があったと分かった。
ホームズはKKKの一味が既にロンドンを発ったと知り、報復としてオレンジの種5つを到着地に送りつけることを画策する。
しかし彼らがそれを受け取ることは無かった。嵐は長く続き、そして激しかった。
ホームズたちは彼らが乗っていたらしき船の板が大西洋の何処かに流れ着いたという話を、やがて伝え聞くことになる。
気になる真相
この話はオープンショーがのんびりし過ぎました。
「書類なんてないよう」
とか早めに書いて日時計に置いとけば何とかなったかもしれなかったのに。
依頼が失敗してしまって、ホームズも少々プライドを傷つけられてしまい、依頼人ももういないのに調査を続けています。
しかし、この話にはホームズシリーズのどの事件とも違う特徴がありますね。
オープンショー一家に起こったという一連の事件の話は、依頼人の口から伝え聞いただけです。
それにオープンショーの死因も事故死だと見なされるほど自然なものだったらしいですし、結局ホームズが突き止めたKKKの一味とかいう連中にも顔を合わせることはありませんでした。
そういう訳で、この事件の真相は最初から最後まで推測しかできません。
いつもなら実際に事件が起こった場所に調査に赴いたり、捕まえた犯人が訥々と語り始めることで真相を知るのですが。
あくまでも制裁を自然死に見えるようにしてきたKKK自身がこうして「海難」という自然死で亡くなるのは因果を感じます。
裏ではモリアーティ教授が関わってたりするのかもなんて妄想も広がっちゃう(「恐怖の谷」でもそういう描写はありますからね)。
それとも、実はKKKなんか関係なくてホームズの一人相撲だったりして。
オープンショーの家族は本当に自然死で、オレンジの種はイタズラ、オープンショーの死因は偶然。
船の記録でKKKの一味を突き止めたが、これもたまたまその時その船が来ていただけだった。
なんてどうでしょう。
はたまたホームズがワトスンをからかう為にオープンショーと共謀して事件をでっち上げたとか。
ワトスンが読んだオープンショーの事故死についての新聞記事はフェイクだったんだ!
ホームズは結婚してしまって最近つれない態度のワトスンに、あのころの冒険心と好奇心を思い出させるために策を弄したのだ!
なんて。真相が分からないと妄想が広がってしまいますね。
KKKはほんとうにあった
KKK、正式名称クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan)。
実は現実に存在していた組織です。
アメリカは当時秘密結社ブームで(『恐怖の谷』でもそのことが描かれていますね)、このKKKもそのうちの一つでした。
白人至上主義を標榜した彼らは当時の社会を脅かし、後世にも悪名を轟かせています。
ドイルがこの作品を発表したのは1891年のことで、KKKはその時には凋落していたらしいですが(Wikipedia情報)、ドイルがこうして現実に存在する組織を作品中で取り上げたのは結構な冒険だったといえるでしょう。
人間味あふれるホームズ
め、名言……?
“Except yourself I have none,” he answered. “I do not encourage visitors.”
ーー「君以外に友だちはいないよ。来客も好きじゃない」
す、すごくホームズの偏屈さを感じるセリフですね。
ワトスンはさらっとこの発言を流していますが、読んでいるこちらとしてはかなりツッコミたいポイントです。
きっとワトスンは、
まあホームズって気難しいから、どうせ友だちも少ないんだろうな。
ということが念頭にあったからこの発言を聞き流せたのだと思います。
ホームズのことを良く知っていたワトスンだからこそですね。
きっとワトスン以外がこれを聞いたなら、口には出さずとも多少びっくりしてしまったでしょう。
ホームズは『緋色の研究』をしっかり読んでいた
“If I remember rightly, you on one occasion, in the early days of our friendship, defined my limits in a very precise fashion.”
「僕の記憶が確かなら、君は僕たちがまだ知り合ったばかりの頃に、僕の能力について精密なリストを作っていたよね」
このセリフは二人が最初に出会った『緋色の研究』の話の中で、ワトスンが珍妙きわまるホームズの人となりを知るために、ホームズのできる事とできない事をリストにしてまとめていたことを指しています。
しかしながら、そのリストを作ってすぐに馬鹿馬鹿しくなったので、ワトスンはリストを暖炉に燃やしてしまったのでした。
“When I had got so far in my list I threw it into the fire in despair.”
私はリストをよく見てみたが、やがて失望して暖炉に投げてしまった。(『緋色の研究』)
そういう訳ですから、ホームズは『緋色の研究』を読んで初めて、このリストが存在していたことを知ったのでしょう。
ワトスンはリストを燃やしてしまったのに、その内容を執筆時に思い出せたの?とか疑問に思うのはまあ置いておいて、
ちゃんと君の本を読んでいるよ!
というアピールをホームズがしてくれているのは嬉しいものがありますね。
『四つの署名』ではワトスンの著書をボロクソに批評した癖に、とは思いますが。
でもそのジャンルが嫌いだからといっても、しっかり読まないで批判していたのではないことが、ここのセリフで分かりました。
失敗に終わる
この依頼は結局、依頼人であるオープンショーの死亡と、その首謀者を捕らえることができなかったので、まったくの失敗に終わりました。
We sat in silence for some minutes, Holmes more depressed and shaken than I had ever seen him.
“That hurts my pride, Watson,” he said at last. “It is a petty feeling, no doubt, but it hurts my pride. It becomes a personal matter with me now, and, if God sends me health, I shall set my hand upon this gang. That he should come to me for help, and that I should send him away to his death– –!”
He sprang from his chair and paced about the room in uncontrollable agitation,with a flush upon his sallow cheeks and a nervous clasping and unclasping of his long thin hands.
私たちはしばらくの間沈黙して座っていた。ホームズはこれまでに見たことがないほど落ち込み、打ちのめされている様子だった。
「こいつは僕のプライドを傷つけたよ」と彼はようやく口を開いた。
「もちろん些細なことに過ぎないが、確かにこいつは僕のプライドを傷つけた。この事件はこれから僕の個人的な調査になる。そして神が救い給うなら、この手に必ず悪党を捕らえてみせるよ。オープンショーは僕に助けを求めてきたのに、僕はその彼をみすみす殺してしまったのだ……!」
彼は勢いよく椅子から立ち上がると、抑えきれない情動のあまり、血色のない頬を赤らめて、神経質な長く細い手を握ったり開いたりしながら部屋を歩き回った。
ホームズの無念さがひしひしと伝わってくる描写です。
彼は自分に任された依頼には最後まで責任を持つということを信条としていますから、今回の失敗は並々ならぬショックだったことでしょう。
ホームズが依頼を失敗する話は原作の話の中でもそう多くはありませんが、やはりどの話においてもホームズは自分の選択や推理を後悔しているというような発言をします。
成功ばかりではないホームズですが、こういった失敗の話もあるからこそ彼に親しみが湧いて、人々がホームズの話を愛する理由になるのでしょう。
小ネタ
ワトスンの奥さんは誰?
ワトスンは文中で、
“My wife was on a visit to her mother’s, and ……”
――妻は母の所に行っていて、……。
と書いていて、だから自分はホームズの下宿に滞在していたと説明しています。
しかし、メアリは四つの署名のなかでこう言っています。
“My mother was dead, and I had no relative in England.”
――「私の母は(幼少の頃に)亡くなっていて、それに親類もありませんでした」
さらに、ワトスンも戦争から帰ってきた時にこう書いています。
“I had neither kith nor kin in England,”
――イギリスには一人の友人も親類もいない。
という訳で、メアリには肉親も義母もいないということになる。
ならこの“her mother”とは一体誰なのでしょうか?
他にも不思議なことがあります。
『四つの署名』が起こったのは1887〜1889年のいずれかの9月で、メアリとの結婚はその少し後にしたのだろうと思われます。
しかしこの話は1887年9月の終わり頃のこととなっていて、『四つの署名』からひと月も経っていないか、もしくはそれよりも前の話ということになってしまう。
メアリと知り合ってまだひと月も経っていないのに、結婚なんて早すぎますよね。
じゃあワトスンが言っている“my wife”って、何ぞ?
そういう訳で、この状況に2つの説明をつけました。
- ここでのワトスンの妻というのは、メアリと出会う前に結婚していた前妻のことだった。
- まだ結婚してもいないメアリのことを妻と間違えて呼んでしまった。
メアリと結婚する前に既に結婚していたというなら、“her mother”って誰?という疑問も解消できます。すなわち、この前妻のお母さんということになるでしょう。
全てに説明がつきますし、なんだかもっともらしそうですね。
しかし私は是非とももう一方の説、「ワトスンが間違えた」を推してみたいです。
ワトスンはまだメアリとは結婚していなかったけれど、ついうっかりメアリのことを「僕の奥さん」と呼んでしまったのです。
せっかち者のワトスンは、どうせもうすぐメアリと結婚するんだから奥さんって言っちゃってもいいか、と思ったのかもしれない。
もしくはこの話を書いたのがメアリと結婚した後だったなら、話の中ではまだ結婚していないという時期だったということを度忘れしてしまって、執筆していた時の状況でそのまま「僕の奥さん」と書いてしまったのかも。
ではワトスンがうっかり書き間違えたとするならば、メアリのこの“her mother”とは誰なのか?
メアリの母とは、ずばりセシル・フォレスター夫人です。
フォレスター夫人はメアリの家庭教師のご主人様で、メアリとは家族同然に仲良くしていました。
そんなフォレスター夫人が家族のいないメアリのことを気にして、養子縁組を結ぶというのは考えられなくもないと思います。
でも他にも考えられるかもしれませんね。
ワトスンは「イギリスには」頼れる親族はいないと言っているだけなので、ひょっとしたらメアリは外国にいる親類のところを訪ねていったのかもしれません。
いずれにしても、ワトスンの結婚生活については謎に包まれていますね。
ホームズに勝った「あの人」
オープンショーに「あなたは負かされたことのない人だ」と言われたホームズはこう返した。
“I have been beaten four times—three times by men, and once by a woman.”
――「私は四度負かされたことがありますよ。三回は男に、一度は女に」
始め読んだ時は、ここで出てくる女性というのを『ボヘミアの醜聞』に登場したアイリーン・アドラーのことかと思っていました。
でも後から読み返してみるとちょっと違和感があったんです。
“To Sherlock Holmes she is always the woman. I have seldom heard him mention her under any other name.”
――ホームズにとって彼女はいつも「あの人」だった。私は彼がそれ以外の呼び方をしているのを滅多に聞いたことがない。(『ボヘミアの醜聞』より)
ここから、ホームズはアドラーを“the woman”と呼んでいたことが分かります。
しかし、さっきの話では“a woman”とホームズは言っていたのでした。
こういうわけなので、ここで言われている「ホームズを負かした女性」というのはアドラーとは別人の誰かではないのか?と考える人もいるようです。
とはいえ、それについてはもっと単純な話でしょう。
オープンショーはアドラーのことを当然知らなかった(彼がホームズを訪れたのは『ボヘミアの醜聞』発表より前のことだと思われるし)ので、ホームズも気を使って「あの人」と言わなかったのでしょう。
英語の“the”は相手も知っている情報の前につける冠詞です。
もしアドラーのことを知らない人と会話している中でいきなり、
「私は『あの人(the woman)』に負かされたことがあるんだ」
「えっ? 『あの人(the woman)』って誰?」
となってしまいますからね。
ワトスンはもちろん「あの人(the woman)」と言えばアドラーのことだと分かっていますから、ホームズも彼の前ではよくそうやって表現していたというだけで、アドラーを知らない人に対してはちゃんと「ある人(a woman)」と言っているのでしょう。
次回はさっきまで部屋にいたはずの夫が一瞬で消えた?!『唇のねじれた男』です。